仙台物理実験塾 PeX

Experiment × Physics

月別: 2017年2月

物理学のはじまりその2 と 私が伝えたいこと

前回の記事では紀元前600年頃のピタゴラスの話をしました。しばらく舞台は古代ギリシアのままです。本日はデモクリトスとアリストテレスの話をしましょう。


古代ギリシア人その2「デモクリトス」

今回はそれから200年ほど経ったお話です。その時、デモクリトスという哲学者がいまして、「あらゆる物質は人間の目には見えないほど小さな粒子からできている。」という考えを提示しました。しかしこれは法則とは言えませんよね。法則とは実験によって成り立つと考えられることですから、デモクリトスの提示したことはきちんと目で確認するまでは法則ということはできません。(これでもわからないという方は以前の記事「物理学とは」「物理学と数学の違い」を読んでみてください。)

デモクリトスは「これ以上分割できないもの」という意味を表すギリシア語のアトモスという名前をこの粒子に付けました。これは現在でも使われている英語のatom(原子)の由来です。しかし当時にこの考え方がすぐに受け入れられたとはいえず、ドルトンが原子説を発表する西暦1800年頃までの約2200年間、実は忘れられていた考え方だったのです。今の時代では考えられませんよね。中学生の頃から物体は原子という粒子から構成されていることをさも当たり前かのように叩き込まれているのです。しかし、それは今の時代では当たり前の考え方であるとしても、いつの時代でもそうであったとは言えないのです。

デモクリトスの考え方では、アトモスには4種類(石の原子、水の原子、空気の原子、火の原子)があり、これらの組み合わせによって物質が構成されていると考えたそうです。例えば、

  1. 植物は日光を浴びて育つから、土=石の原子、水分=水の原子、太陽の火の原子からなる。
  2. 木は水の原子を失うと燃えてしまう。そして火の原子=炎を放出して、石の原子=灰をその場に残す。
  3. 石の原子からできた金属鉄鋼を火の原子=炎の中に入れると、石原子と火原子が結合して金属を生ずる。鉄のような金属は火原子を少ししか含んでいないから金属光沢がそこまででもない。一方、金は火原子を最大限に含んでいるからピカピカしていて高価である。

のような具合に考えていたようです。ここから、「錬金術」の考え方も見て取ることができますね。高価だから金を欲しい、だから鉄にもっと火原子を加えれば絶対に金ができるのだ。そう、考えるようになったのでしょう。

デモクリトスの考え方は、差異はあれど、現代の化学において重要な基礎をなしていることは明白ですよね。でも、当時その考え方を口にしても馬鹿にされるだけだったでしょう。これは彼の考え方は「単なる考え方」に過ぎず、実験的な検証が難しかったことにも起因するでしょう。しかし私は、どのようなところに真実が転がっているかはわからないもので、どんな考え方も根拠もなくむやみやたらに批判はせず、深く考えたり議論することの重要性を目の当たりにしているような気がします。


私が伝えたいこと

議論の重要性の話が出てきたので、ここで少し私の考え、塾を作ろうと思った一つの理由を書きたいと思います。学校では教師からの一方通行の授業が日本では普通です。しかし、それでは生徒の能力を最大限に引き出すのは難しいことです。ただ言われたことを受け止め、何も考えず、公式を暗記し、点数が取れて・・・と。このような消極的な姿勢では、大学に進学したとしても勉強に対する興味は全く保つことができないでしょう。人に言われたことをきちんと理解しアウトプットする能力は確かに重要ではありますが、それが100ではどうでしょうか。私は、もっと教師を含んだ双方向的な議論が必要なのではないかと思います。生徒自ら考え、間違ってもいいから、それを発信する。教師は間違いだとしてもすぐに否定するのではなく、なぜ違うのか、どうして間違いなのか、などを考えさせる。その過程で、無味乾燥だと思っていた勉学の面白さに気づく生徒もいると思うのです。現状の高校教育が間違っているとは思っておりません。ただ、そういう場所を設けたいというのが私の考えなのです。


少し話が飛びましたが、古代ギリシアの話に戻りましょう。

古代ギリシア人その3「アリストテレス」

彼は紀元前384年に生を受け、17歳の時にアテナイという場所に行き、哲学者プラトンの元で勉学に励みました。広く旅をして周り、再びアテナイに戻ってきたときにはリュケイオンというところに学園を開いて散歩学派という哲学の一学派を築きました。彼がここで講義を行ったときの台本と思われるものが現在でも彼の著作として残っていて、論理学、心理学、政治学、生物学など様々な分野についての論文があります。しかし、彼は物理学に関してはほとんど貢献をしなかったと言われます。唯一の貢献は、物理学の英訳physics(フィズィックス)の語源となっているフュジス(ギリシア語で自然という意味)を使い始めた、というくらいです。

アリストテレス哲学では「事物の本性にはそれ以上立ち入った研究をすることは無用である。」という考え方があった。例えば、地上の物体はなぜ落ちるのか、だとか、天体はどうしてこのような運動をしているのだろう、だとか、そのようなことを深く考えることは無用であるとしていたのである。

実はこの考え方はのちのルネサンス時代まで「当たり前の知識・前提」として受け入れられており、かの有名なガリレオ・ガリレイ(のちの記事で触れる予定です)もこの考え方を受け入れており、抜け出すために奮闘しなければいけなかったのです。


さて、今日は古代ギリシア人で重要な人物としてデモクリトスとアリストテレスを紹介しました。次回は古代ギリシアの巨人「アルキメデス」に焦点を当てたいと思っています。今日はここで終わりにいたします。

物理学のはじまり その1

今日からは物理学の歴史について触れていきたいと思います。

まずは「物理学のはじまり」というタイトルで、何回か小分けにしつつ連載していきたいと考えています。基本的に毎日更新したいと考えています。また、物理学で用いる難しい用語については、筆者が覚えている限りではありますが、用語リンクをその都度つけ、読者が意味を確認できるようにしたいと考えています。
物理学が発展する源泉となったのは今日「古代ギリシア人」と呼ばれている人々であると考えられています。例えば、以下のように物理学の用語にギリシア語に由来するものが残っています。

  1. 磁気を意味する英語のmagnetism(マグネティズム)は、ギリシア人のマグネスという名前の羊飼いが持っていた鉄の石付きのついた杖が道端の石ころに引きつけられた事に驚いた事に由来すると言われています。
  2. 電気を意味する英語のelectricity(エレクトゥリスィティ)は、コハク(ギリシア語でエレクトロン)を羊の背中でこすって磨いていたら、そのコハクは小さな木片を引きつけるような力がある事に気がついた事に由来すると言われています。

これらは定性的な理解(量的に何かを理解したわけではなく、性質としておおよそを把握するという意味合い)にとどまっていますが、初めてそれを数学的に定式化しようとして記録に残っているのがピタゴラスの弦に関する実験結果です。
高校で倫理学を勉強した方は、ピタゴラスは「世界を支配するのは数である」と唱えた事を知っている人もいると思います。彼は弦が奏でる音についてある法則を見つけたのです。図1をご覧になってください。

図1:ギターの弦が揺れる様子の概念図(弦の長さの比が1:2)

イメージするのはギターの弦ですね。弦の下の方は固定されていますが、私たちはそれを弾く時に片方の手を使って弦の途中を指で抑え、音を変化させます。ピタゴラスは現代風にいえば二つのギターを用意し、「協和音」が出るのはどういう弦の長さの時なのかという事をつきつめようとしました。その結果「完全な協和音を与える弧長は単純な整数比をなさねばならない。」という法則を見出しました。

法則:「完全な協和音を与える弧長は単純な整数比をなさなければならない。」

★実演実験「ピタゴラスの弦の法則」

あまりに簡単な実験ではありますが、1:2の和音(1オクターブずれの和音。今回はファの音です。)と、2:3の和音(減5度音程。今回はシのフラットとファの音です。)について実際に動画に撮ってみましたので、ぜひご覧になってみてください。本当に測ってるのか?と思う方もいるかもしれません(笑)。そういう方はぜひきちんと測ってやってみてくださいね。

これは紀元前6世紀の中頃の話です。つまり、理論物理学(数学を用いて、自然の現象を定式化し法則という形でまとめていく学問)の始まりはだいたい2600年ほど前であると考えられるのかもしれません。

しかし、ピタゴラスはさらに考えを進めて、「諸惑星の運動は協和しているに違いない。よって、地球から諸惑星まで測った距離というのはギリシアの民族楽器ライアが与える7つの基音を生ずる弦の長さと同じ比を持つに違いないのだ。」と考えるようになったそうです。自然現象が数学との関わりを持ち、その美しさに哲学的な思考を抱くのは私もわからないではありませんが、病的になってしまう方々もいらっしゃったわけですね。

今日はここまでにしたいと思います。

物理学と数学の違い

今日は物理学と数学の違いについて触れたいと思います。

物理学については先日書いたとおりです。読んでない方は前の記事「物理学とは」を見てみてください。

今日の記事の流れは以下のようになっています。

  1. 数学とは?
  2. 物理学と数学の比較

 

1:数学とは?

数学というと、みなさんはどういったことを考えるでしょうか。計算だったり、図形だったり、難しくてやりたくないものだとか、いろいろあると思います。ここでは数学がどういう学問なのかを書いていきたいと思います。

まず、数学がどういう構造を取っているのかをざっくりと説明しましょう。

図1:数学の構造図

図1を見てみてください。この図で意図しようとしていることは、「土台が公理・定義なるものであること」、そして、「土台の上に定理なるものが確立していること」です。数学に慣れ親しんでない人は、何が何だかわからない人のほうが多いかもしれません。分からない人は、この記事を通してこれを理解することを目標にしてください。

まず、数学の仕組みを理解するために「論理学」という分野について触れます。厳密には細分化されている学問で、私も勉強不足で詳しくはわかっていませんが、重要なことは「Pということを正しいと仮定してみたら、いついかなるときも正しいと導かれることは何か?」ということです。

では、少し例に触れてみましょう。現実に即した感覚的なものを例にとります。

上のPに「雨が降った」を入れてみましょう。つまり、「雨が降ったということを正しいと仮定してみたら、いついかなるときも正しいと導かれることは何か?」ということになります。私の一つの答えとして、「どんな人も傘をさすこと」を提示しましょう。しかし、これは常に正しいことでしょうか?もしも、ある人が天気予報を見忘れてしまい、急に振り出した雨に打たれてしまったら、傘をさしていない人になってしまいますよね。このように、私が述べた結論を否定する内容のことを「反例」といいます。この反例によって、私が上に述べた「どんな人も傘をさすこと」は常に正しいとは言えないことになります。結論は常に正しくなければならないのです。あらゆる時代であろうが、あらゆる人にとってあろうがです。言い換えれば、仮に常に正しい結論であれば、いつの時代の誰にも覆すことのできない永遠不滅の真理となるのです。これを数学の言葉では「定理」といいます。

定理:あることを正しいと仮定したとき、常に正しいと導かれる事柄

ここまでの話で図1の中の「定理」というものを分かったと思います。つまり、図2のように頭の中で整理できていればOKです。

図2:数学の構造図その2

 

さて、ここまで定理と証明について説明してきました。では、定理の説明にある「あること」とは何なのでしょうか?読んでくださっている方でもうなんとなくわかってきた方もいらっしゃるかもしれません。実はその「あること」=「公理・定義」なのです。数学の世界において、一番の土台のことを「公理」といいます。公理が正しいということは誰にも証明することはできません。公理はスタート地点です。公理を正しいと言えないのであれば、定理の説明にある「あることを正しいと仮定したとき・・・」という言葉に合ってないじゃないか!と思う方もいるかもしれませんね。もちろんその通りで、完全に正しいということはできないのです。ただ、それを「正しいもの」として認めてしまおう、目をつむってしまおうというのが「公理」なのです。

公理:数学の一番の土台であり、正しいとは証明できなくとも正しいものだと認めてしまう事柄

さらにそこに「定義」と呼ばれるものを定めます。これは簡単に言えば「ルール」です。スポーツのルールと同じです。しかし、ルールも決めた段階ではうまくいくとは限りませんよね。実際に試合を通してみたりして、よくないルールを排除したり、新たなルールを付け加えたり、いろいろと変化することが考えられます。数学におけるルール、すなわち「定義」も同様です。定義の変更はあり得ます。

定義:数学におけるルールのようなもので、変更はありうるが現状は正しいと認める事柄

では、ここまでをまとめなおしてみましょう。図3のようになりました。

図3:数学の構造図その3

それでは最後にまとめてみましょう。数学とはどのような学問なのか?それは・・・

数学:公理・定義を正しいと仮定し、そこから常に正しいと証明することのできる定理なるものを導いていく学問

ということになります!1:数学とは?の冒頭で述べた、「図1を理解することを目標にしてください、という目標は達成できたでしょうか?

 


2:物理学と数学の比較

物理学については、数学の構造について納得がいただけた方にはとても理解しやすいです。

はじめに簡単にその構造を説明すると、図4のようになります。

図4:物理学の構造

あれ?と思ったでしょうか。実は、物理学の構造自体は数学とほぼ同じです。異なるのは、数学においては「公理」と呼ばれていたものが、物理学においては「法則」となっていますね。法則とは何でしょうか?これが理解できればほぼクリアです。

法則:自然現象(実験結果)を説明することのできる最小限の規則

実はこれは前回の記事「物理学とは」に書いた法則の説明のことです。

ここまでの話では「じゃあ物理と数学何が違うんだ!公理と法則って名前が違うだけか!」というふうに感じられてしまうでしょう。この微妙なニュアンスの違いをこれから述べてみます。

間違いを恐れずに言い切ってみると、

物理学・・・まず、自然現象(図4では定理と書いた部分)がまず私たちの前に現れます。それが常に正しいと証明できるような条件Pは何なのかを探し求める学問です。

数学・・・・まず、公理と定義を決めます。そこから常に正しいと証明できる定理を導き出す学問です。

これではわけがわからない方もいると思うので、もう少し図解して説明してみます。1:数学とは?で述べた「P⇒Q」(「Pが正しいと仮定したとき、常にQということが成り立つ。」)という書き方を用います。

図5:物理学と数学の違い

 

図5を見てみてください。物理学で分からないのはPです。仮定のほうがわからないのです。一方で数学で分からないのはQです。結論が分からないのです。

物理学は、現状の自然現象(Q)は何(P)を仮定すると説明できるのか、ということを追い求めます。

数学は、まず土台(P)を固めてしまい、そこから何(Q)が得られるのか、ということを追い求めます。

実は、物理学において、自然現象を説明するために仮定する事柄を探し出そうとするのは、論理的には完全に誤っています。それを例をとって説明してみましょう。

あなたのクラスの数学の先生の授業はとても分かりにくいとします。また、その先生の授業のテストの平均がとても低かったとします。(これは図5でいうところの自然現象に相当します)

そこであなたはこのような予想を立てます。「テストの点数が悪いのはすべてあの教師の責任だ。授業が良ければもっと平均点が上がる。」この予想も一つの考え方かもしれません。しかし、原因は本当にそれだけといえるでしょうか??もしかしたら、「まったく努力しない生徒ばかりが集まっているから」かもしれません。「たまたま試験範囲が難しいところばかりであったから」かもしれません。原因はたくさん考えることができます。したがって、現状目に見えること(図5のQ)から常に一つに定まる原因(図5のP)を求めることはできないのです。これは論理学においては「誤謬推定(ごびゅうすいてい)」といいます。日常的に私たちが行いがちな論理的間違いです。

しかし、物理学では誤謬推定によりPを求めようと試行錯誤します。したがって、この誤謬推定によって見つけ出した法則Pは、誤りな可能性があります。これはすべて実験結果によって吟味されます。このことは前回の記事においても述べましたが、非常に重要なことです。誤謬推定によって仮定条件(=法則と呼ばれる)Pは得られるものの、それによってあらゆることが導けるわけではないのです。仮に得られた法則Pから導くことのできない実験結果Qが新たに出てきた場合、法則Pは書き換えなければなりません。上位互換へと姿を変えていくのです。これは数学とは大きく異なります。数学では基本的には土台部分の「公理・定義」は変化しません。しかし、物理学においては土台部分の「法則」があやふやなものでできているのです。

図6のように感覚的には理解することができるでしょう。

図6:数学と物理学の土台の違い

 

図6の物理学の土台部分には亀裂を走らせています。

それでは最後にまとめてみましょう・・・

数学とは:公理・定義をまず定め、そこから常に正しいと導き出されるもの(定理)が何なのかを追い求める学問。

物理学とは:実験結果がまず目の前にあり、それを説明することのできる仮定条件を探そうとする学問。

この見方だけではないとは思いますが、現状の自分が思う物理学と数学についての印象を書かせていただきました。


 

 

 

次回以降は物理の歴史などに触れていきたいと思います。また、センター試験等の問題を数学的にちゃんと記述しつつ解く方法についてものせていきたいとおもっています。

物理学とは

物理学とはなんでしょうか??辞書にはこんなことが書いてあります。

物質の構造・性質を明らかにし、それによる自然現象の普遍的な法則を研究する自然科学の一部門。運動・熱・光・電磁気・音などの諸現象をはじめ、素粒子・核・宇宙線・量子エレクトロニクスなど対象は広く、精密な実験によって量的な把握を行い、数学を応用して表すことに特徴がある。(デジタル大辞泉出典)

つまり、「事」を「解しよう」とすることですよね。私たちの身の回りには不思議なことがたくさんあります。「なぜ、物は落ちるのか。」「なぜ、地球は太陽の周りを回っているのか」などなど。人類は古くからこのような疑問について真剣に考えてきました。物理学の根底の一つをなす運動学の起源は天文学であると考えられています。この歴史的な経緯についてはまた別の記事にて触れることにしましょう。

とにもかくにも、物理とは、「身の回りのことを理解しようとする学問」であるわけです。では、この「理解する」とはもっと具体的にどういうことなのでしょうか。先に結論を述べましょう。現在の物理学においては、「身の回りのことを理解すること」とは、「①実験によって確立された最小限の法則と②数学によって③自然を記述すること」です。これは、実は冒頭に述べた辞書の通りですね。こういわれてもなんとなくわかったような・・・という感じの方もいらっしゃると思うので、できる限りかみ砕いて説明したいと思います。


①実験によって確立された最小限の法則

「最小限の」というのはその名のとおり、「最も数が少ない」という意味です。「法則」は規則のようなものと考えればよいでしょう。校則、法律、そのようなイメージです。

「実験によって確立された」というのは、「数値などを定量的に(=量的に)測る方法により、証明された」という意味です。(「証明」という意味は数学における証明とは意味合いが違います。ここら辺の話も混み合いますので別の機会にしたいと思います。)物理学における証明の意味をこちらで説明します。例えば、物が落ちることを私たちは経験的に知っていますが、ものによってゆっくり落ちたり、はやく落ちたりすることも経験的に知っています。そこに洞察力のある少年がいて、ものによって落ちる速度が変わるのは「空気があるからだ」という考えを立て、「空気がないところで落下させれば同じように落ちるはずだ」と考えたとしましょう。実際、この実験をするとそのような少年の仮説が正しかったといえることがわかるのです!この瞬間、(数値の測定はこの場合ありませんが)少年の仮説は一つの法則になるのです。

「どんな物体も、空気がないところでは全く同じように落下する。」

これだけでもかなり不思議なことですよね。でも、ここで新たな疑問がわきます。なぜ?上のような法則が成り立つのでしょうか?これに答えるのは並大抵のことではありません。もし物理を知らない方がこの文章を読めば、「いや、そうなるから・・・としか。」と答える方もいらっしゃるかもしれません。でも、それを追究し、一番根源となる法則を導こうとするのが物理学者です。

 

②数学によって

数学とは何か、ということから説明しなければこれにきちんと答えることはできませんが、簡単にイメージするなら「計算」を思い浮かべてくだされば十分です。つまり、「数学によって」=「計算によって」です(数学の方に怒られてしまうとは思いますが、ざっくりとした話ですのでご了承ください)。

 

③自然を記述すること

自然とは「私たちの身の回りに起こるあらゆる現象」と考えてくだされば大丈夫です。「音が耳によって聞こえること」「光によって物が見えること」「熱」「地球は太陽の周りを回っている」「物は落ちる」などなど、あげればキリがないわけですね。

 

さてまとめてみましょう!物理学とは、、、

数値などを定量的に測る方法(=実験)により証明された最小限の法則と、計算(=数学)によって私たちの身の回りに起こるあらゆる現象を記述すること。

です!ここで重要なのは、法則を正しいと認めるためには必ず実験をしなければならないことです。もっといえば、実験によってその法則とやらとそぐわない結果がどうしても出てきてしまった場合、その法則は改良が必要もしくは破棄されることになってしまいます。実はここが数学とはずいぶん異なる性質をもつところなのです。そこも面白いのですが、長くなりそうなので初めての記事はここまでとしておきます。

今回は「物理学とは」ということに対して一定の答えを出しました。次回は、「物理学と数学の違い」について書きたいと思います。

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